陰キャぼっち主婦がカメラ転売で毎月30万円の安定収入を得てモラハラ夫を克服した話(前編)

はじめまして、横山レイコと申します。

 

私は2015年からカメラ転売を始めて、

地方在住・3人の子育て中・コミュ障という逆境にも負けずに

月にたった2回の仕入だけで、毎月30万円以上を安定して稼ぎ続けています。

 

横山レイコはこんな人

・カメラ転売で最高月収49万円

・東京から嫁いだ地方在住の3人子育てママ

・家にいながら毎月30万以上の安定収入がある

・相場無視の高値売りが得意

・最高単品益11万円(以前は6万円だったのを最近更新)

・一般的な転売の利益率10~20%のところ、私の利益率は40~50%

・店舗仕入は月に2回だけで毎月30万稼いでいる

・カメラ転売と自動化を組み合わせたビジネスをしている

・1個売っただけで10,000円以上の利益を出すのは簡単

・少ない作業時間でも爆利益を出せるオリジナルメソッドを構築

・子供をおざなりにしてまでビジネスしたくない

・小資金&無理のない作業で結果を出すのがモットー

・薄利多売ではなく爆利少売

・店舗仕入が大好きで、お店に入った瞬間利益商品を見つけられる

・カメラ転売の全ての作業が大好きで楽しんでいる

・初めて取り組む受講生が初月から9万円の利益を出した

・新しい知識を入れることが大好き。常に知識に投資している

・家事中や子供の習い事の送迎時にも、効率よく勉強している

・自分の人生は自分で決めるために、子育てママも経済力が必要だと思っている

 

今まで累計4000個以上のカメラやレンズを販売してきたので、

どんな商品が利益出るのか、お店に入ればすぐ目に入りますし、

その商品をどう販売すれば利益を最大限に引き出せるのか、

瞬時に頭に浮かぶようになりました。

 

「これ利益出そうだな…」

 

というのが直感でわかります。

 

まるでカメラやレンズに「私を買って!」と呼ばれているように感じます。

 

なので、一般的な転売で一番苦労すると言われている仕入に

まったく苦労していません。

 

むしろ、簡単に仕入れができすぎてしまうので

利益が3,000円程度の少ないものは敢えて買わずに残してくるほどです。

 

ネット仕入でも同じく、利益の出る商品はどれかがわかるので

無数にある商品の中から利益が出る商品だけを選んで

一歩も家から出ることなく仕入が完了する日もあります。

 

・暑すぎたり寒すぎたりして外に出かけたくない時

・子供や自分の体調が良くない時

・なんとなく外に出るのが億劫な時

などには、ネットで仕入れ完了してしまうのはとても楽チンです。

 

数あるネット仕入の中でも、ヤフオクは利益が出る商品だらけなので、

 

「あ!コレも利益取れるじゃん。あ、これも、これも…!!」

 

と、まるで無数に落ちてる宝物さがし(宝物拾い?)をしているような感覚でとても楽しく

ついつい片っ端から入札してしまいそうになるくらいです。

 

そのくらい、私の実践しているカメラ転売では

一般的に最初につまずくと言われている仕入に全く困りません。

 

物販は「安く仕入れて高く売る」のが基本のビジネスモデルなので、

ただ仕入れた金額より高く売ればいいだけ。

それが息をするようにできるので、毎月安定収入を得ることができます。

 

そんな私なので、

今ではモラハラ気質の旦那よりも稼げるようになったことで

一切文句を言われることなく

誰に気を遣うでもなく、のびのびと充実した生活を送っています。

 

毎日子供たちが学校へ行って家事を終わらせた後、

1~2時間楽しくて仕方がない作業をしながら

(私にとってカメラ転売は癒しの時間です)

1個売れば5,000円や10,000円越えの利益は当たり前

 

最高記録は1個販売して114,205円の利益をたたき出しました。

(ちなみに仕入れは33,000円でした)

 

もちろん子供たちが最優先なので、

体調不良の時や学校のイベントがある時などは

全く作業しない日もあります。

 

先日、兄弟の間で風邪をうつし合ってしまった時には

二週間ほど、毎日誰かを病院へ連れていくという

兄弟がいるご家庭ではあるあるなループに入ってしまいました…。

 

そんな時でも、カメラ転売であらかじめ商品を出品しておけば

その後は何もしなくても自動で売れていくので、

子供が病気の時にパートに行けなくて無収入になってしまったり、

会社の人に迷惑をかけてしまうこともありません。

 

カメラ転売をやっていて本当に良かった、

こんな時でも収入が途絶えないのは本当に助かるなぁ…。

 

と、病院の待合室で「決済完了」されたメール通知を見ながら思いました。

 

子供が体調の悪い時にはすぐに病院へ連れて行ってあげられるし、

学校へもすぐに迎えに行ってあげられるし、

元気になるまでそばについて看病してあげられる。

 

子供にとって、母親がそばにいてくれる、

自分を心配してついていてくれるというだけで

安心感が半端ありません。

 

母親にとっても、

子供のそばにいる間は仕事のことは考えることなく

収入の心配もする必要がないだなんて、

本当に『カメラ転売IS神』だと本気で思っています。

 

今では自由で充実した楽しい生活を送れている私ですが、

以前は旦那から激しいモラハラを受け、少しでも意見を言おうものなら

 

「銀行のキャッシュカードを返せ!」

「文句があるならお前が稼いでこいよ」

「出ていけ! 離婚だ!!」

 

など、経済的DVを受けたり、

耳元で怒鳴られて聴力が落ちたり、

壁パンチは当たり前、物に八つ当たりされて壊れたもので家の中はめちゃくちゃ…

 

 

と、かなり辛い毎日を送っていました。

 

「旦那のお給料で養われている私って、

稼いでいないから旦那の言うことを聞くしかないんだ…」

 

旦那に攻撃され続け、

ただ我慢して耐えることしかできなかった私が

どうやってモラハラ旦那を黙らせるほどに稼げるようになり、

自分で稼ぐスキルを身につけたのかというと、

 

『カメラ転売に出会えたから』

 

です。

 

といっても、カメラ転売に出会うまでは

様々なネットビジネスに挑戦しては挫折を繰り返していました。

 

・メルマガアフィリエイト

・ブログアフィリエイト

・PPC

・Amazon転売

・中国輸入転売

・メルカリ無在庫転売

 

これ以外にも、到底実践できそうにない

詐欺的な情報商材も入れれば

かなりの数のノウハウに手を出しては失敗し続けてきました。

 

稼いでいないから我慢するしかない自分、

自分の人生の選択肢さえない自分、

子供たちを自分の力で守れない自分、

母親として不甲斐ない自分…

 

そんな自分が嫌で、抜け出したいと思って

ネットビジネスを始めたはずなのに

お金を増やすどころか、

大切な貯金をどんどん減らしている事実

 

「はぁ…私って、一体何やってんだろう…」

「やっぱり、私なんて稼ぐの無理なのかな…」

 

と、自分の能力のなさに嫌気がさしたり、

お金を減らしている罪悪感に落ち込む日々を過ごしていました。

 

でも、私が稼げなかった原因は、

稼げない情報・自分に合っていない情報を必死に実践していたからです。

 

・結果がすぐに出ない

・稼げるけど自分の心が痛むような方法

・稼げるようになるためには膨大な作業が必要

・モチベーションが続かない

・サポートしてくれる人がいない

・そもそも自分に合っていないビジネス

 

今まで挫折してきたネットビジネスは、

必ずどれかに当てはまるものばかりでした。

 

それなのに私は、

 

「私にはきっと能力がないんだ…」

「こんなこともできない自分は、やっぱり稼ぐなんて無理なんだ…」

 

と、ずっと自分が悪いのだと思い込んできました。

 

でも、それは間違っていることに気がつきました。

 

結果がすぐに出る

お客様から感謝されて自分も嬉しい

作業が少ない

結果がすぐに出るからモチベーションが続く

しっかりサポートしてくれる人がいる

めちゃくちゃ楽しくて天職だと思えるビジネス

 

そう思えるビジネス、つまりカメラ転売では、

正しい方法で、しっかりとサポートしてもらいながら実践すれば

今まで数々の挫折を繰り返してきた私でも

しっかりと結果を出すことができるようになれたのです。

 

私のブログでは、

夫婦関係に悩んでいる女性

経済力のせいで我慢をしている女性

世帯収入が少ない家庭のママ

在宅で子供のそばで働きたいママ

自分の力で稼げるスキルを身につけたい

いい加減ノウハウコレクターを卒業したい

今までネットビジネスで結果を出したことがない

など、以前の私と同じ悩みを持ち苦しんでいる方のために、

カメラ転売のスキルを身につけ自分の力で稼げるようになり、

自分の好きな人生を手に入れるようになるための方法

を発信しているブログです。

 

私の過去の物語を読んでもらうことによって、あなたにもカメラ転売で毎月安定した収益を上げ続けて人生を変える方法が具体的にイメージしやすくなると思うので、私の過去の物語を紹介します。

 

--------レイコの物語---------

齢3年で大きな人生の岐路に立たされる

 

私の人生観にに大きな影響を与えた出来事があります。

 

それは、母親だからって自分の限界を超えて働き過ぎたことで体を壊して子供のそばにいられなくなってしまっては、子供にとっても母親にとってもどちらも不幸になってしまうということです。

 

家族のために、幸せになるために働いているはずなのに、逆に不幸になってしまっては本末転倒。

大切な人を守るには、まず自分の心と体が元気にでいることが最優先だと思いました。

 

私はこの世に生まれてたった三年で、人生の大きな岐路に立たされました。

それは両親の離婚です。

 

なんでも言うことを聞いてくれる優しいお父さん、

いつでも自分を守ってくれる頼れるお母さん。

そんな二人が大好きで、三人の生活にとても幸せを感じていました。

 

小さい頃の記憶はあまりないですが、

両親が離婚を決めたであろう夜のことはよく覚えています。

 

布団の中でギュっと私を抱きしめている母。

なにか父と言い争いをしているようでした。

 

尋常じゃない雰囲気に、私は泣きながら

 

「おとうさん、おとうさん!!」

 

と父の方に手を伸ばしていました。

 

いつもは優しく受け止めてくれる父は

なぜかずっと下を向いたままでした。

 

「どうして受け止めてくれないんだろう…」

 

すごく悲しい気持ちで泣き叫んでいました。

 

すると父は、

 

「クソッ!!!!!」

 

と大きな声を出して、

バン!大きな音がしたと思ったら、父のパンチで引き出しに大きな穴が開いていました。

 

いつも優しくて温厚な父が、そんなことをするのに驚いた覚えがあります。

 

それから母と私は、母方の祖母の家で暮らし始めました。

母は、私を保育園に預けると、朝から晩まで生命保険会社の営業として働いていました。

 

母は車の免許を持っていなかったので、

田舎の道を片道40分かけて自転車の後ろに私を乗せて保育園へ送り、

そこからまた30分かけて駅まで行って、それから通勤していました。

 

通勤時間は片道2時間半、ぎゅうぎゅうの満員電車で立ちっぱなしでした。

(子供の頃、母の職場についていったことがありますが潰れて死ぬかと思いました…)

 

雨の日も風の日も、毎日自転車の後ろに私を乗せて

一生懸命に自転車をこぐ、左右に揺れる母の背中を今でもよく覚えています。

 

そして保険の営業だったので、お客様のところへ営業に行くためにたくさん歩いたそうです。

 

そのせいで、母の足は外反母趾ができて今でも親指が変形してしまっています。

そんな母の足を見ていると、子供を育てるために自分を犠牲にして必死で働いてきたんだな…という「母の覚悟」や「母親の偉大さ」が感じられます。

 

小学生になり、私は鍵っ子になりました。

鍵っ子とは、学校から帰っても誰もいない子供が、自分で鍵を開けて家に入るために首から鍵をかけていることです。

 

共働きが一般的になった現代では、鍵っ子なんて聞きません。私が育った時代では、それほど共働きの家庭が少なかったんだと思います。

 

いつも友達に

 

「これ(鍵)何?」

「どうして首からカギをぶら下げてるの??」

 

と質問されるのが辛かったです。皆と違う自分の家庭環境を指摘されているようで…。

 

私の小学校では現代のように学童がなかったので、学校から帰っても大人に面倒を見てもらえません。それがとても心細かった覚えがあります。

 

家に一人でいても寂しいし心細かったため、祖母か母が帰ってくるまで、友達の家に遊びに行くのが日課でした。

 

当時は母親がフルタイムで働いていることも珍しかったですし、

離婚している家庭もほとんどいなかったので、

そんな

特殊な家庭事情である自分に「友達の家とは違う」という

恥ずかしさや劣等感を抱いていました。

 

ある日、学校からずぶ濡れになって家に帰るとすごい雨と雷で停電してしまいました。昼間なのに部屋の中は真っ暗。電気もテレビも付きません。

 

もちろん家には誰もいないので、ずぶ濡れの自分を優しく包んでくれる大人は誰もいません。そのことが心細さに拍車をかけているようでした。

 

バチバチと窓に打ち付ける荒れ狂った雨の音と、

まるで耳元で鳴っているかのような雷、

そして雷の振動でミシミシと揺れる家。

 

まだ小学生だった私は、この世にたった一人しかいないような孤独感と、大きな雷鳴の恐怖とで、濡れた髪の毛ごと耳をふさいで部屋の真ん中でうずくまるしかできませんでした。

 

「怖いけど、誰も助けてくれない…。」

「雷がお家に落ちたらどうしよう…。」

「誰か、早く帰ってきて!!」

 

大人になった今でもトラウマとして残るほど、本当に怖くて心細かったです。

 

でも、毎日朝から晩まで仕事をして、家に帰れば私の世話をしてくれるいつも忙しい母に、寂しいとか、早く帰ってきてなどとわがままを言うわけにはいかないと、幼心に思っていました。

 

父は毎週金曜日に東京から会いに来てくれて、父と母と三人で夜ご飯を食べたり、買い物をしたりして家に送ってもらったり、夏休みには旅行にも連れて行ってくれる不思議な関係ができあがっていました。

 

離婚しても、今まで通り可愛がってくれる優しい父が大好きでした。

 

また三人で暮らせたらいいのに…といつも思っていたし、

お正月の初詣では「また三人で暮らせますように」といつもお祈りしていました。

 

中学生になり、ソフトテニス部に入った私は毎日部活に明け暮れていました。

とにかく部活や友達と一緒にいるのが楽しくて、鍵っ子であることも両親が離婚していることも、あまり気にせず中学生活を楽しんでいました。

 

するとある日、母が学校を休んで北海道に旅行へ行こうと言い出しました。

え…??あんなに毎日忙しく、休みも返上で働いている母が、私に学校を休ませ自分も会社を休んで旅行に行くの!?

と、心の底から驚きました。

 

そして、熱が出た時以外は学校を休ませてくれなかった母が、旅行に行くから学校を休めだなんて、きっと何か理由があるはずだと思い聞きました。

でも、その理由を教えてはくれませんでした。

 

なんか変だな…。と思いながらも、母と二人だけで行く旅行なんて初めてだったし、北海道も初めてだったので、ワクワクしていました。

 

二泊三日の北海道旅行は、本当に夢のような時間でした。

 

初めて乗った飛行機にはテンションが上がりまくったし、

この世の中にはこんなに美味しいものがたくさんあるのか!!と思う程、

食べるもの全てが見たことないくらい大きくて、美味しかったのです。

 

緑色が濃くて太くて甘いアスパラ

濃厚なバターの乗ったホクホクのじゃがバター

柔らかくていくらでも食べられそうな北海道牛ステーキ

 

食べ盛りの中学生だったので、毎食毎食お腹がはちきれそうになるまで食べました。そんな私を、母は優しい目で見ていました。

 

いつもは早く食べなさいとか、好き嫌いしないのとか、口うるさかった母なのに、この旅行中は妙に優しい…。

 

いつも厳しいのに、旅行中は色々ということを聞いてくれる優しい母に違和感を感じながらも、初めての北海道を満喫して楽しんでいました。

 

そんな旅行から帰ってしばらくたったある日、母にお買い物を頼まれて家に帰ると、家の前に救急車が止まっていました。

 

え…うち?!?

 

驚いて家に入ると、母が過呼吸でうずくまって苦しそうにしているところに、祖母と叔母が付き添っていました。

 

そして担架を持った救急隊員に手際よく寝かせられ、苦しそうな母は救急車で運ばれて行ってしまいました。

何が起こったのか理解できず、立ち尽くしていたことだけは覚えていますが、この後どうなったのかは覚えていません…。

 

母は新宿の大きな病院へ入院しました。そこで、手術を受けると聞きました。

心臓の弁がうまく機能しない病気で、その弁をうまく機能するようにする手術だと教えられました。

 

大丈夫だから、と力なく笑う母。

 

小さい頃からずっと見てきた、いつも自分を守ってくれて、どんな時でも味方でいてくれて、頼もしくて強い母の弱々しい笑顔に、

 

「もしかしたら、お母さん居なくなっちゃうのかもしれない…。」

 

そう思うと不安で涙が止まらなくなって、どうにかなりそうでした。

 

まるで子供の頃に感じた、もう克服したと思っていた

あの雷の日のように孤独感と寂しさで心が押し潰されそうだった。

 

そして、あの北海道旅行は母は自分がいなくなってしまうかもしれない覚悟を持って、私と思い出を作るために連れて行ってくれた旅行だったんだと悟りました。

 

私は学校があるので祖母の家に帰され、母の面倒は新宿で働いていた父が毎日見てくれるということでした。

 

「どうか神様、お母さんを助けて下さい。」

「勉強も頑張ります。他に何もいりません。だからお母さんだけは助けて下さい。」

 

毎日寝る前に手を重ねて祈り続けました。

 

その願いが通じたのか、母の手術は成功しました。

あの時は本当に嬉しかったし安心したし、神様にも感謝しました。

そして、これからは母をもっと大事にしようと心に決めました。

 

母は、ずっと過酷な通勤や営業のノルマ達成、そして私の子育てなど、何年も無理を重ね続けて体を壊してしまいました。

 

きっと私に対して片親だったことに負い目があったのでしょう、私に不自由のない生活を送らせてあげようと、仕事を頑張りすぎてしまったのだと思います。

 

それからしばらく入院して、また母は仕事に復帰しました。

毎日無理していないか、また具合悪くなったりしないか心配する私に、

 

「大丈夫だから。自分のやるべきことをやりなさい。」

 

とピシャリと言って、忙しく働く母はとてもかっこよく、昔も今もずっと尊敬する人生の先輩です。

私も母のように、自分の力で子供を守れる母親になりたい。母が背中で見せてくれたから、私も子供たちのことは何があっても守りたいと思えるのだと思います。

 

そんな母のおかげで、高校・大学と無事に卒業することができました。

私はこの体験から、大切な人に自分は親だからって無理して欲しくないし、

自分が子供の頃に寂しかった経験から、自分の子供には同じ寂しい思いをさせたくないという価値観が生まれました。

 

就職し、理不尽な上司から逃げたい一心で結婚を決める

 

ここからは、いかに会社や旦那に依存して生きていくことが危険なのかということを身をもって経験した話をしていきます。

 

大学を卒業し、母が勤める食品卸売会社に就職した。

社長が母を保険会社からヘッドハンティングして、母はその会社の役員として働いていた。

 

そんな優秀な母の娘が就職してくるらしい!と社内では噂になっていたようだったが、私はワードもExcelも満足に扱えないパソコン音痴のポンコツ新入社員だった。

 

そんな私だったのにもかかわらず、社長は寛容に面倒を見てくれて、色々なことを教えてくれた。私の父とは違うけど、人生における大切なこと・生きていくためのライフハック的なことなどを教えてくれた、もう一人の父のような存在だ。

 

少しずつ仕事ができるようになってきた頃、社長の紹介で私の上司となる人が入社した。実質ナンバーツーと言われるポストに就いて、社員の人達から一目置かれる存在だった。

 

だが、その上司はとても理不尽だった。

 

私の直属の上司だったから、一番私が対応する時間が多く、電話でのやり取りがほとんどで「言った・言いってない」問題が多発していた。

 

電話で指示をしたと言われたけど、実際には言われてない。

そう主張しても、どうしたって悪くなるのは部下である私の方だ。

電話でのやり取りだけなので、書面による証拠は一切残っていない…。

 

「絶対言われてないのに…。どうして誰も信じてくれないんだろう。」

「どうして誰も私が正しいって思ってくれないんだろう。」

 

自分は悪くないのに、注意されるのはいつも自分。

人って否定され続けていると精神的におかしくなってくる。

 

家に帰ると無性にチョコレートが食べたくなって、

毎日のように母の目を盗んではチョコレートをむさぼり食べた。だから顔にはいつも吹き出物ができていた。

 

会社が休みの日もお構いなしに携帯に電話してくる上司に腹が立ち、

家で携帯を壁に投げつけた。

 

休日の夕方、何も悲しいと思っていないのに勝手に涙が出てきた。

 

日曜日の夜、明日からまた仕事か…と思うと

とてつもなく憂鬱な気分になって、手足が冷たくなった。

 

会社や仕事は好きだけど、もうあの上司のもとで働くのに嫌気がさしていた。

 

それでも、ポンコツ新入社員だった私を働かせてくれた社長に恩返しをしたかったし、何よりも母に恥をかかせたり悲しい思いをさせたくなかった。会社員である以上は上司を選ぶことはできないし、私には会社を辞める選択肢は選べなかった。

 

働き出して3年が経ち、周りの同僚たちにも恵まれて、それなりに仕事もできるようになっていた。

でも、相変わらず理不尽な上司に苦しめられる日々だった。

 

そんな時、会社に修行という名目で働きに来ていた、

同僚である取引先の社長息子が、修業期間を終えて故郷に戻ることになった。

 

部署が違っていたので、朝と帰りの挨拶とか、ちょっとした時に話す程度だったけど、年が近かったからか、もう会えないのかと思うと少し寂しく感じた。

 

まるで友達が転校していく時のような寂しさだった。

 

この時はその程度にしか思っていなかったけど、この社長息子が将来自分の旦那になる人だった。

 

今まで何人か付き合ってきた人はいたけど、どの彼氏も母は良い顔をしなかった。あからさまに反対はしていないけど、賛成もしていない…といった感じだ。

 

特に結婚願望もなかったので、別にいいか~と思って気にせず付き合ってきたけれど、周りの友達が結婚していくのを見ていると嫌でも自分も意識せざるを得ない。

 

当時付き合っていた彼氏は、何でも私の言うことを聞いて合わせてくれる人だった。

でも、悪く言えば刺激のない、何も変わり映えしない感じが物足りなかった。

 

ところが、旦那は私とは全く違う思考回路の持ち主で、どうしてそんなことが思いつくのだろうと、価値観の違いが逆に新鮮で刺激的だった。

…この価値観の違いが後々自分の首を絞めるとはつゆ知らず、故郷に帰ってしまった社長息子との遠距離恋愛が始まります。

 

2年間同僚だったとは言え、働く部署が違っていたので旦那が一体どんな人なのか、ほとんどわかっていませんでした。

とにかく「取引会社の社長の息子」という肩書があったので、自分とは住む世界の違う人だと思っていたため、全く恋愛対象としてみていなかったのです。

 

故郷に帰った取引先の社長息子と、会社役員の娘である私が付き合っていると知って、社長は「俺が仲を取り持ってやったんだ!」と大喜びしていました。

 

今まではどんな彼氏も良い顔をしてくれなかった母も、なぜか今回はとても好意的で、まるで頑張ってと言わんばかりに出かける時には洋服を買ってくれたりしました。

 

私は今まで女手一つで育ててくれた母が認めてくれる人とじゃないと結婚したくないと思っていたので、この人なら結婚してもいいのかも…と思い始めてしまいました。

 

一方でせっかちな社長に無理やり結婚を迫られた旦那は、まだ付き合って1年も経っていないにもかかわらず結婚しますと宣言し、あれよあれよという間に結婚が決まっていきました。

 

結婚自体はあまり気が進まなかったけど、理不尽な上司と仕事しないで済む、これで会社を辞められると思うと、結婚を言い訳に会社から逃げられることにホッとしていました。

 

何よりも母がとても喜んでくれていたのが嬉しかったです。

この時は、旦那のことを理不尽な上司から救い出し、母を喜ばせてくれた恩人だと思っていたのです…。

 

恩人だと思っていた旦那の本性が現れた瞬間

 

一人娘であるにもかかわらず、快く送り出してくれた母、そしてきっと寂しかったであろうけど旦那にも挨拶をしてくれて送り出してくれた父にはとても感謝している。

 

だからこそ、今まで育ててくれた両親の期待を裏切るわけにはいかない。自分はこの結婚に絶対失敗できないと思った。

 

小さい頃の経験から、両親が離婚している子供の寂しさとか孤独感、他の家庭とは違う恥ずかしさや劣等感を味わってきたから、もし自分に子供ができたら絶対に同じ思いをさせたくないと常々思ってきた。

 

仲人を引き受けてくれた社長から、

 

離婚している家庭の子供は、離婚に対して抵抗がないから離婚しやすい。

歴史を繰り返すな。

お前の代で止めろ。

お前の帰る家はないと思え。

 

と言われてきた。

 

もちろん、自分も離婚するつもりはないし、お世話になった社長の顔に泥を塗ることはしたくない。根拠はないけど、自分は絶対に大丈夫だと思っていた。でも改めて言われると、ちょっとプレッシャーだった…。

 

結婚生活は、旦那の家族と同居するところからスタートした。

 

元々人見知りだし、一人っ子だからか一人の時間がないと苦しくなるタイプ。今までの生活でも、1人で過ごす時間が多かったから、いきなり大勢の中に放り込まれてかなりストレスだった。

 

しかも方言がわからない…。

近所を歩けば親しげに話しかけてくれるおばあさん、何を言っているのか全く理解できなかった。

 

自分が今まで生まれ育った東京とは何もかもが違っていて、まるで異国に来たようで完全にアウェーな気分だった。自分の味方が誰もいない…。そんな心細さを感じていた。

 

一番味方でいて欲しかった旦那は、付き合っていた頃はわからなかったけれど、母親に対してとても反抗的で、威圧的な態度をとっていた。

 

ただジーパンを洗っただけで、そんなに怒る??ってほど激怒していた。

どうやらこだわりの洗い方があるらしい…。だったら洗濯機の前に脱ぎ捨てて置いたらダメでしょ…と思ったけど、勝手に洗った母親が悪いと言ってお茶の入った袋を投げつけて、中身が床に散乱した。

 

そんな知らなかった一面を見て驚いた。

 

「え、こんな人だったの!?」

 

と思った。付き合っていた頃は、ちょっと変わった思考回路を持っているけれど、優しくて思いやりのある人だと思っていた。

 

今までの生活の中で男の人が家にいたことがなかったので、男の人ってこんなものなのかな…とも思った。正しい基準を知らないって怖い。

 

ある日旦那の母親が私に、

「今はまだ私に怒りが向いているけど、いつかあなたにこの怒りの矛先が向かわなければいいけれど…。」

と、ぽつりと言った。

 

その時はピンとこなかったけど、旦那の母親の予想は見事に的中した。さすが母親だ。

 

旦那が私に対して本性を出し始めたのは、長男が生まれてからだった。

男として、子供が生まれたら一人前だと調子に乗りまくっていた。

 

勤める会社の方達からは、ビックリするほどのお祝いが届いた。さすが社長息子だ…。

 

旦那は小さい頃から将来は会社を継ぐんだぞと言われて育ってきたし、周りの人にちやほやされ、本人もそのつもりでずっと生きてきた。自分は偉いんだ、選ばれし人間なんだと勘違いしてしまっても当然である。

 

そして旦那は会社をまとめ上げる父親を見て、父親のようになりたいとリスペクトして生きてきた。でも、旦那の父親も典型的なモラハラ夫だった。

 

・一度席に着いたら自分は動かない

・どんなに近くにあるものでも人を呼んで取らせる

・テレビのチャンネル権限は自分優先

・ご飯のおかずは後の人のことは考えずに食べ干す

・気に入らなければ怒鳴り暴れる

・自分にたてつくヤツは全員敵

・自分の意見は絶対に間違えていない

・何をするにも自分が最優先

 

最初は社長だからかな?と思ったけど、私が勤めていた会社の社長はこんなに暴君ではない。むしろ愛妻家だった。家族をとても大切にしてるのが、傍から見ても感じられた。

 

そんな父親を尊敬して育ってきた旦那も、ご多聞に漏れず立派なモラハラ夫だったことを、結婚してから初めて理解することになった。

 

私は「働かざる者」に分類されるということを知る

 

長男に授乳してから、おとなしくしてくれている間に急いでご飯をかきこむ私にむかって、同居していた旦那の父親は、

 

「働かざるもの食うべからず」

 

と、いじわるそうな笑顔を向けて言ってきた。

 

子供も生まれたばかりだし、働くにしてもまだ体も万全じゃない。それに初めての育児で慣れないことだらけで毎日寝不足だし、頭も体も心もいっぱいいっぱいだった。「自分が働く」という概念さえなかった。

 

そんな時に旦那の父親の言葉を受けて、

 

「私って、稼いでないからご飯を食べる価値さえない人間なんだ…。」

 

と思った。目の前にいる赤ちゃんを育てることが今の私がやるべきこどだと思っていたので、まさかご飯を食べる価値がない人間だったとは思いもよらず、他人から見たら自分は稼いでいもいないのにタダ飯を食べる厄介者だったと知って驚いた。

 

ひとりっ子だったから、父からも母からも惜しみない愛情を注いでもらって、否定されずに大切にされて生きてきた私にとって、自分の価値観を壊されるように自分を否定されるのはとてもショックだった。

 

それからすっかり自信をなくしてしまった私は、

 

ただただ家事をこなし、

旦那の言うことを聞き、

子供たちの世話をする…

 

感情を持ったらいけない、家政婦ロボットになることに徹した。

 

稼いでいないから、自分の意見を言ってはいけないし、

稼いでいないから、我慢をするのは当然だし、

稼いでいないから、奴隷のように従わないといけない。

 

私さえ我慢すれば、旦那も気分良く暮らせて、怒って暴れ出したりしないので子供たちに危害が及ぶこともない。

 

子供たちのためなら、自分自身のことなんてどうでもいい…。

 

でもある日ふと我に返って思いました。

 

それって家族なの??

 

家族って、誰かが誰かに見下され逆らうことが許されず、言いなりになって生きていくことなの??

夫婦って、外に働いて稼いでいる人は偉くて、家で家事と育児をしている人はえらくないの??

夫婦って、家族って、対等なんじゃないの…??

養われている人は、価値がない人間なの??

 

気力もなく、ボーっとした意識の中で何となく見ていたテレビのワイドショーでは、

 

「女優と有名ミュージシャンがついに離婚!」

 

などと報道されていて、思わず

 

いいな…あの女優さんは。私と同じ子育てママの立場なのに、

自分で自分の人生を決められるんだ…。

 

私は私の人生さえ自分で決められない。一体、彼女と私の違いはなんなんだろう…??

 

冷静になって考えれば相手は綺麗な女優さんなので、違いなんて山ほどありますが(笑)

 

その時は、彼女と私の違いは

 

「自分で稼いで自分の力で生きていけるかどうか」

 

だと思ったのです。

 

だったら、私も稼げるようになれば、自由に生きられるようになるのでは??

今までどうせ私には何もできないと何もしないで諦めていたけれど、私にできることだって、きっと何かあるはず!!

 

私だって、生活に貢献したい。

私の母がそうしてくれたように、何よりも大切な子供たちをこの手で守りたい。

経済力をつけて、人生の選択権を取り戻したい!

 

そう強く思ったのです。

 

私はこの経験から、何かに依存して生きていくことのリスクを身に染みてわかりました。

 

ひとつは、会社に依存していると理不尽な上司から逃げたくても逃げられない。

そして、自分で稼げずに旦那のお給料だけで生活していると、モラハラ旦那に理不尽なことをされても逃げることができない。

 

だから私は

 

経済的にも精神的にも自立をしないといけない

 

と心の底から思った。

 

ここから、経済的・精神的自立を手にするために、私のネットビジネスの挑戦と葛藤の日々が始まります。

次の記事では、

「これで稼げなかったら、もうネットで稼ぐのは諦めよう。」

と、偶然出会ったカメラ転売スクールでの失敗談から始まります。

迷走どころか逆走っぷり、場違いな質問でその場を凍らせる、
大赤字垂れ流しのボランティア転売などなど、

スクール始まって以来の落ちこぼれ

 

だと言われていました。

きっと誰もに「この人、絶対に稼げるようにならないだろうな…」と思われていたと思います。

どんどん周りが稼げるようになっていく中で、

 

「どうして私だけは稼げるようになれないんだろう…。」

「やっぱり、私がネットで稼ぐなんて無理なのかな…。」

 

毎日毎日、惜しさと不甲斐なさと絶望と焦りで

感情がぐちゃぐちゃだった3カ月。

 

そんな問題児の私が、

 

次の記事の主な内容

●何をやっても稼げなかった私が、唯一稼げるようになれたカメラ転売ってどんなビジネスなの?

●どうやって落ちこぼれから最高月収49万を稼ぐブレイクスルーを迎えられたのか?

●圧倒的不利なママという立場なのに、少しの作業で大きな利益を得られるようになった訳は?

●一度の取引で終わらずに、資産を積み上げることで手間を省いて売上を増やす方法とは?

●「爆利少売メソッド」爆誕の裏側

●高値売りの極意

 

などを、具体的に細かく解説しています。

 

こんなにも落ちこぼれだった私の失敗談を読んで頂けたら、

 

「これなら私にもできるかも!」

 

と、きっとあなたも自信を持てると思います(笑)

 

それと同時に、カメラ転売ってめちゃくちゃ簡単に稼げるんだ!

と実感して頂けるはずです。